薩摩川内チャレンジストーリー(#46想夫恋)
本市では、令和3年6月8日に、市長が「薩摩川内市未来創生SDGs・カーボンニュートラル宣言」を実施し、2030年SDGsの達成と2050年カーボンニュートラルの達成に向けて取り組んでいます。
また、令和4年5月20日には、国(内閣府)のSDGs未来都市に選定され、今後さらにSDGs及びカーボンニュートラルの達成に向けて、「薩摩川内SDGsチャレンジ」を合言葉に市民総ぐるみで取り組むことを目指し、持続可能な社会の実現のために、一人ひとりができることからSDGsの達成に貢献し、市民のみなさんと一緒に本市の未来を創る各種取り組みを実施しています。
各種取り組みの1つとして、市内でSDGsに関連する取り組みを行っている市民の方をインタビューした「薩摩川内SDGsチャレンジストーリー」を動画及びWebコラムにて公表しています。
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静かな祈り、再び。久見崎想夫恋の歩みとこれから
~地域の歴史を未来へつなぐ~
「想夫恋」復活の笑顔
慶長の役を起源とし、400年以上の歴史をもつ久見崎盆踊り「想夫恋」。夫、父、兄弟、息子ー帰らぬ人を想って女性たちが踊り継いだ祈りの舞は、コロナ禍と担い手不足によって活動休止を余儀なくされてきました。しかし、保存会や本市の取り組みで2025年11月23日、6年ぶりの復活が実現。風景が変わり、担い手が変わっても、静かな祈りの姿は未来へとつながろうとしています。
晴れわたる空の下、6年ぶりの想夫恋
雲ひとつない秋晴れの日。松葉ごしにこぼれる光が、久見崎の広場に集まった人たちをやさしく包む。お高祖(こそ)頭巾に黒紋付の羽織をまとい、静かに息を整える踊り手たち。6年ぶりの復活となるこの瞬間を、観客や来賓、関係者が輪となって見守った。
厳かな祈りの舞
亡き人を想う手
三味線の音が鳴り、児玉千鶴さんの唄が立ち上がる。踊り手の指先に込められた静かな祈りが、秋の光を受けて広がっていく。所作はしなやかに、遠くを招くような動きはゆるやかでありながら、堂々としている。400年を超えて伝承されてきた唄と踊りが、久見崎の広場を鎮魂の空間へと変えた。無事に踊り終えた演者たちは、ふうっと息をついて互いの顔を見合わせ、「よかったね」と笑い合った。
秋の陽に輝いて
あの世とこの世をつなぐ
今回、初めて唄い手を務めた児玉さんは久見崎・滄浪地区の出身だ。想夫恋の復活に向けて地域が動き出した時、母親から「あなたがやらんね」と背中を押された。母親はかつて三味線の弾き手として想夫恋に参加しており、自身も小さいころに三味線の手ほどきを受けていたという。重責を感じつつも「自分のできることをやる」と覚悟を決め、晴れやかな復活の日に艶のある歌声で踊りを導いた児玉さん。終演後には緊張から解き放たれて、「ほっとしました」と笑みがこぼれた。その一言には、唄い手として背負った責任の大きさと、踊りが無事に披露されたことへの安堵、そして「これからも続けていける」という静かな希望がにじんでいた。
唄と三味線を担当した児玉千鶴さん
踊りを守り伝えた地域の女性たち
戦と祈りの記憶:想夫恋のはじまり
久見崎盆踊り「想夫恋」の起源は、今から四百年以上前、安土桃山時代の慶長の役にさかのぼる。慶長2年(1597)3月18日、豊臣秀吉の命令により、島津義弘公率いる一万余りの将兵は、薩摩の軍港であった久見崎から高麗へ向けて船を出した。翌年8月、秀吉の死去により全軍引き上げとなったが、双方に多くの犠牲者が出た。島津家久の代となり、戦死した霊を慰めるため、8月16日に盛大な慰霊祭が行われた。そのとき地元の未亡人たちが踊ったものが、想夫恋のもとになったといわれている。
鎮魂の踊り
脇差を腰に
女性たちはお高祖頭巾に男物の黒紋付の羽織を着て、腰の後ろに脇差を差した装束で踊る。羽織と脇差は夫の形見、頭巾で顔を隠すのは夫の霊を迎え、慰めるという意味が込められたものだ。
かつては、海を望む松林の砂地で踊っていたそうだ。男たちを見送り、その無事を胸の奥で祈り続けた女たち。喪失の痛みを抱えた女性たちは、海の彼方へ消えた魂に向かって、遠くを招くような所作を繰り返した。唄は素朴でありながら、深い哀調を帯びる。
戦と喪失と祈り──。想夫恋は、久見崎という土地が引き受けてきた記憶そのものだ。
やがて時が流れ、慶応2年(1866年)の御船手(江戸時代に藩の軍船や官船の係留・管理を行った役所や、その周辺の地域。薩摩藩では鹿児島・久見崎・加治木にあった)の廃止などもあって、想夫恋は自然消滅する。しかし60年後の大正15年(1926年)、当時の鹿児島高等農林学校(今の鹿児島大学農学部)長・玉利喜蔵氏が郷土民芸調査に来訪。当時の久見崎古老たちと協議の結果、古老たちの記憶をもとに復活したという経緯がある。この祈りの舞を「残さなければならないもの」と感じていた証であろう。
立ち止まった時間:空白の6年間
戦国の世に始まり令和に至るまで、想夫恋は決して派手ではないが、毎年静かに祈りをつないできた。しかし、思いがけない大きな空白が生まれる。2020年以降、新型コロナウイルスの流行により、地域行事の多くがそっと息を潜めるように休止されていった。想夫恋も例外ではなく、気づけば6年間の休止を余儀なくされた。踊り手の多くは高齢で、かつて松林で踊った世代は70代、80代を迎えていた。
「このまま、私たちの代で終わってしまうのではないか」。想夫恋保存会の森満幸守会長、副会長の上山もも江さんらはそう感じていたという。やめるのは簡単だ。誰も責めたりはしない。けれど、消えるにはあまりに惜しい祈りと記憶が、この踊りには詰まっている。「みんなで守っていかなければ」。意を決した保存会は市に相談を持ち掛けた。「地域だけでは、伝統芸能をつないでいけない。力を貸してほしい」。
森満幸守さん(右)と上山もも江さん(左)
滄浪地区コミュニティセンターで練習を重ねた
三味線部隊の児玉千鶴さん(左)園田知美さん(中)古垣雄二郎さん(右)
再び動き出す伝統:支える仕組みと新たな仲間
開催を祝する田中良二市長
2025年5月に開催した市芸能祭にて、想夫恋が披露された。テープ音源に合わせての踊りではあったが、踊り手たちはしっかりと、その振付を体で覚えていた。「今年こそ、復活してほしい」。止まっていた時間が、ゆっくりと動き出した。
どうすれば現状に合った開催ができるのか。課題は山のようにあった。まずは開催日である。8月16日でなければならないのか。想夫恋は本来、盂蘭盆の十六日に踊る供養の舞。だが近年の猛暑は厳しく、高齢の踊り手に真夏の屋外は酷である。継承者不足の現実とあわせ、従来の形を守るだけでは継続が難しい。県指定の無形文化財であるため、日付を変えることは本来容易ではないが、県や市の担当部署に丁寧に事情を伝え、開催日の変更を認めてもらった。大切なのは「残ること」。こうして2025年、11月23日の開催が正式に決定した。
続いて、薩摩川内市の「さつませんだいスマイル応援隊」が動いた。地域の担い手不足を補うため、市民や地域外の人が関われる仕組みである。踊り手や三味線奏者を募り、練習会の告知などをサポートした。その結果、滄浪地区の出身者に加えて、地域外からの参加者も集まった。その一人が、三味線の古垣雄二郎さんだ。募集を見て初めて想夫恋を知ったという。「いい踊り、いい唄だなと感じて。気づいたら三味線を持っていました」と、ほほえむ古垣さん。想夫恋は未亡人たちによる踊りだったこともあり、女性のみで担ってきたが、古垣さんの参加もおおいに歓迎された。伝統も時代に合わせて、アップデートされたのだ。
唄と三味線の音が響く
スマイル応援隊のみなさん
風景は変わっても、祈りは残る
秋の光が緑の松葉から降り注ぎ、川内川の青、東シナ海の青が静かに広がるその場所で、久見崎に集った人々は再び、祈りを込めて踊った。それは歴史をつないできた先人たちへの恩返しでもあった。
踊りを見届けた後、久見崎軍港跡へ向かった。薩摩藩の軍港としての面影は、今ではほとんどない。川内川の護岸工事によって地形は大きく変わり、かつての姿を留める場所はごくわずかだ。一帯にはハマボウの自生地としても知られる場所があるが、7月に咲く花だけが、昔から変わらないのかもしれない。
東シナ海に注ぐ川内川
久見崎軍港跡
京泊天主堂跡に遺るロザリオ
久見崎の対岸には、京泊天主堂跡がひっそりとたたずむ。歴史に彩られた久見崎地区であるが、時代の変遷とともに、その色は少しずつ薄れてゆく。だからこそ、郷土芸能は地域の歴史を留め、後世につなぐ役割を持つのだと思う。たとえ景色が変わっても、踊りの中にはこの土地がたどってきた物語が生き続ける。6年ぶりとなった久見崎盆踊り「想夫恋」は、地域の人々が自らの歴史にそっと手を伸ばし、次の代へと手渡した、小さな祈りそのものであった。
(取材:令和7年11月)
参照資料:想夫恋保存会「久見崎盆踊り『想夫恋』案内」、『川内市史・下巻』





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更新日:2025年12月05日